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時代の移ろい by morisong

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大分県玖珠町の鉄道遺産「豊後森機関庫」

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豊後森機関庫物語上映にあたって
「機関庫保存は町活性化の起爆剤」
 我が国は元々伝統を重んじる国だった。勿論その背景には切っても切り離せない神仏が存在するが、それだけではない。森羅万象、つまり自然から学んだ東洋思想は全て「無」から始まる。一切の雑念を捨て心を「無」にして自然界を読む。そこに見えるのは、純粋な自然界の法則でありそれを写す我が心である。例えば風が吹く、そして花びらが揺れる。この何でもない事実の中にこそ全ての真実がある。花自体には何の変化がなくとも、風とか光とか周りの環境により、花は変わる。しかし本質は何も変わらない。ものを見るには、常日頃、周りの環境に惑わされることなく「花」そのものを見ることだ。
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 明治維新以降我が国は、西洋の空気で充満した。特に第二次世界大戦以降は急速な進歩を遂げ、それに伴いありとあらゆるモノで氾濫する世と化した。私たちは今その真っ直中にいる。ほしいモノは金さえ出せばほ手に入る時代だ。そんな中で私たちは、「心」を失った。大量生産、大量販売で、どこにでも同じモノが溢れている。当然価格も安い。そこから人間は、何でもかんでも使い捨てという安易な行為を繰り返し、ついにそれが慢性化した。モノが氾濫するが故に、人間にとって一番大事なモノは何かという問いに、答えさえ出せないでいる。最近の三面記事に載る事件は、人を人と思わない事件があまりにも多すぎる。モノも心も同じ尺度で測り始めた人間達の縮図がそこにある。そう思うのは私だけだろうか。
 こんな時代だからこそ、人間はしっかりとした「目」とそれを感じる「心」を、持つべきである。周囲の環境に騙されることなく、そこに咲く「花」の本質を見極めることである。
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 玖珠町豊後森に佇む機関庫は、自然界のものではない。人間が作り出した20世紀の遺物である。石造りならともかく、それも鉄筋入りのコンクリート造りで、物質自体には何の価値もない。しかし機関庫には70年の歴史がある。玖珠経済を支え、ここで働く人々は、汽笛の中でススにまみれながら汗をかき活気に満ちていた真実がある。終戦直前の夏には、ここで働く2人の方が天から降いだ鉛の弾に倒れ、悲しみに包まれた時もある。戦後は久大線を影で支えた立役者でもある。しかし無煙化の波には逆らえず昭和40年代には終焉を迎えた。その後保護されることもなく30年が経過した。機関庫は自然界のモノではないが、私は彼が、いや蒸気機関車たちの母親的存在であった機関庫が、今こそ人の手によって保護されるべきと考える。
 周囲では、科学の発達、産業経済の発展で高度成長の風が吹いている。その「風」に騙されてはいけない。地元民は特にしっかりと「機関庫」の本質を見つめてほしい。本質を見極めることこそ文化である。これも物質文明がもたらした結果なのか、文化は金にならぬとどなたかが言っておられたが、そうではない。そうやって金にならぬ、ならないで物事を計るからこそ金にならぬだけの話だ。そのようなことはあとからおまけで付いてくると考えるべきで、目的にしてはいけない。子ども達はそんな大人の背中を見て育つ。この辺で悪循環を断つくらいの覚悟で一度やってほしい。それが真の意味でどこにも負けない、まねの出来ない町づくり、町おこしにつながる。今からのまちづくりは、ただ目新しいものをつくればいいのだろうか。自分たちの町に眠る財産となるモノを、自分たちの「目」で見つめ直し、再発見することこそ肝要だ。
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 バブルの崩壊の煽りかは定かでないが、20代の若い人たちが古いモノに興味を持ち始めている。全国的に見られる現象だ。古い木造家屋を借りて、補修しながら色々なお店づくりに挑戦している。これは若い人達が、物質文明の飽和状態から開放されたいと心のどこかで願っているのかもしれない。
 そんな時代の流れの中で、機関庫保存運動も生まれるべくして生まれたのかもしれない。玖珠町にとって価値のある運動である。いまこそ玖珠全町民が力を合わせて応援しようではないか。この運動がもしかしたらあらゆる意味で玖珠町を救うかもしれない。
 by morisong
※なおこのメッセージは2002年11月、豊後森機関庫物語上映会を前にして地元玖珠へおくったもの。
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by morisong02 | 2009-04-13 10:44 | 物語上映にあたって